先日、とある本(さる有名なメルマガを本にまとめたやつです。)を読んで、その中の一説に次のような文言がありました。
「与える者は与えられる」
世の中の人は誰しも、自分がしてほしい、してもらいたい、と与えられることばかり望んで、そうしてくれないと、他者を僻んだり、妬んだりする、と。
そういう人はいつも愚痴をいっていて、
「○○してくれない」「△△してくれない」と言う。それを「くれない族」というそうですが、そういった人は決して運は開かれないと。
人を幸福にするために、与えることを行う人は、自分も自然と与えられるようになる、と書いてありました。打算的に与えるのは×です。人を幸せにするためによかれと思って与えることが大事なのでしょう。
ほーう、と思いました。
また、こういう話も。
とある鉄道会社で働いている社長がある日、旧知の鉄道作業員と会います。
作業員が「お前も偉くなったものだな、昔は一日50ドルの為にお互い必死にあくせく働いていたのに」というと、社長は「そうなのか、俺は昔も今も変わらずに、会社の為に、また鉄道を利用するお客さんが快適に過ごせるようにするために、必死で働いているんだが。」
なるほど。
「くれない」型の思考をする人は前者で、人の幸福を考えて「与える」型の考え方をする人が後者なのでしょう。
でも、前者の「くれない」型の思考からぬけだすことってなかなか難しいと思います。
これと似たような教訓として、
「赦すものは赦される」
ということも、言えるかな、と。これは常々私が考えていることですが、人を赦そうとしない人は自分も決して赦してもらえない。逆に人を赦すということを知っている人は、いつかどこかで、自分も赦してもらえる、ということなのですが…。
現実には非常に難しい問題をはらんでいますよね。
たとえば、殺人なんてその最たるものです。
殺された側の遺族にしてみると、絶対に加害者を赦す気持ちにはなれない。
そういうことは次元が違う、と。
映画『スパイダーマン3』のテーマはまさに「赦し」です。
自分を育ててくれた愛する人を殺された主人公ピーターは、激情にかられその殺人犯(サンドマン)と戦うのですが、最終的にそいつを赦します。
というのも、親友でありながら、自分を父の敵として命を狙ってきた友人(ニューゴブリン)が、最終的に身を呈してピーターを守ってくれ、今際の際に父殺しの自分を「赦し」てくれたからです。
赦し、赦される。
赦されたから、自分も赦す。
そこには、人間関係の究極の本質でもあり、理想でもある姿が描かれているような気がします。
というのも巷の漫画や映画なんかでも「お前だけは絶対に許さないッ!!」なんて言葉が、さもカッコいい言葉のように扱われ、激情に駆られた主人公によって悪者が倒されるなんて王道があまりにも多い気がするのです。
(まぁ、少年漫画なんかにおいては主人公がそれをきっかけとして覚醒し、大いなる力を開花させ、敵をド派手にブッ倒す方がスカッとして、見ている少年たちも憧れを抱くようになるのでしょうが。)
「赦し」をテーマに据えた小説として、私が推すのは三浦綾子の『氷点』です。大学生の頃に読んだのですが、自分の娘を殺した殺人犯の娘を、養女として育てることはできるか、という内容です(実は…まぁ、是非一読を)。
三浦綾子さんは『塩狩峠』や『裁きの家』なども書いていらっしゃる。(宗教色が強いなぁ、というイメージがありますけど。)
でも、この「赦し」というテーマ、本当にとても難しい。
もし自分にとって大切な人(恋人、肉親、娘息子)が奪われた時、『赦す』なんてことができるのか。
復讐の狂気に駆られて、法を犯してでも相手を殺したい、と思うのが人間の心情であり、私も絶対に赦せない、と思うのです。
しかし、元来、日本は仇討として復讐を称賛し美化する風土にある国でした。今ももてはやされる『忠臣蔵』なんてのはまさにその代表例でしょう。また、鎌倉時代の源実朝も然りです。
456年「眉輪王の変」に見られる最古の仇討に始まり(おそらくそれ以前もあったと思われます)、1873年に至る「敵討制度禁止令」に至るまで、歴史の表裏の舞台で長きにわたり続いてきたことなのです。
かといって正当化できるものでもない。
ただいえるのは、赦さないものは赦されない、という真実だけなのかもしれませんね。
それを承知したうえで、赦さないというのであれば、それもまた一つの生き方であると思うのであります。
ラベル:スパイダーマン3 与える人は与えられる